玉藻前(たまものまえ)は、空想上の人物「九尾の狐」が化けた美女のこと。
王をたぶらかし、国を破滅すると言われている「九尾の狐」をモデルにした物語上の女性です。
しかし、実は実在するモデルがいたと言います。
それが鳥羽天皇という平安時代の王様のお后様。
その女性が鳥羽天皇に嫁いでからというもの、鳥羽天皇は病に伏せることが多くなったのだとか。
一体、「玉藻前」とはどのような女性で、そして歴史に名を残すような悪女っぷりは何をしでかしたのか。
玉藻前=鳥羽天皇の奥様の歴史をたどります。
玉藻前とは?
玉藻前とは、鳥羽天皇の皇后をモデルにした物語の主人公の名前で、正体は九尾の狐だと言われています。
その実在するモデルの名は「藤原得子」
得子と結婚してから、鳥羽天皇は病気がちになったと言われています。
得子は、自分の子供が王になれるよう鳥羽天皇を操り、
- 保元の乱
- 平治の乱
を引き起こしました。
悪女として名を残した得子は、九尾の狐が正体だとして、名を「玉藻前」とし、物語として語り継がれました。
物語では、玉藻前が18歳になった時に宮中に仕え、鳥羽天皇に見初められて愛されるようになったとあります。
玉藻前は美しく頭も良かったので、鳥羽天皇は誰よりも玉藻前を寵愛(ちょうあい)します。
しかし、鳥羽天皇は玉藻前と一緒になってから、原因不明の病気になり、おかしいと思った陰陽師という、今の時代でいうと祈祷師のような人が、玉藻前は九尾の狐だと見破ります。
正体がばれた玉藻前は、栃木県の那須高原へ逃げましたが、今度は那須高原で様々な悪事を働き、人を殺していきます。
その話を聞いた鳥羽天皇は、九尾の狐を討つべく、部下に指示。
しかし九尾の狐は手ごわく、中々倒すことができませんでした。
何日もかけて、最終的には矢を射られて石になります。
その石から毒が発し、その毒が動物や人間を次々に殺していくため、玄翁和尚という会津の元現寺の僧侶が毒石を破壊し、その後は「殺生石」としておとなしくしているのだという話。
殺生石とは?↓
では、実在する得子とその旦那様である王・鳥羽天皇は一体どのような人だったのでしょうか。
まずは鳥羽天皇のいきさつを探ってみます。
玉藻前を寵愛した鳥羽天皇ってどんな人?
平安時代。
第74代に当たる鳥羽天皇は、5歳で王位についたものの、幼すぎたため祖父である白河法皇が政権を握り続けました。
幼少の頃に母がなくなり、育ててくれたのは白河法皇。
同じく幼少の頃に大病を患い、病弱な子供になります。
白河法皇がなくなると鳥羽天皇がやっと政権を握りますが、鳥羽天皇が摂る政治は自身の感情そのもの。
武力で全てを解決し、短気な性格を感情のまま表に出すような、完全独裁者。
但し、鳥羽天皇は才も武術も優れており、今の時代で言えば文武両道に優れた王でした。
もしかすると鳥羽天皇は頭が良すぎて切れるため、部下たちはついていけず反発を買ったのかも。
鳥羽天皇は、白河法皇がまだ生きているときに最初の奥様をもらいました。
その奥様が白河法皇の養女。
養女と言っても、白河法皇は大のお気に入りで、どうやら男女の関係だったと言われています。
そんな白河法皇のお気に入りの娘をもらった鳥羽天皇。
最初の子供=長男は自分の子供ではないと思っていました。
しかし、なんやかんや言いながらも鳥羽天皇とその奥様の間には、7人の子供が産まれます。
その後、白河法皇が亡くなると、待ってましたとばかりに鳥羽天皇は他の女性に一目散。
その中でも「藤原得子」は絶世の美女で、鳥羽天皇は完全に藤原得子の魅力に落ちていました。
藤原得子は中流家庭の出ですが、鳥羽天皇のはからいで17歳で入内。
この時鳥羽天皇は31歳。
14歳差の歳の差カップル誕生です。
もちろん、他にもたくさんの妾はいました。
子供も他にたくさんできましたが、常に愛し続けるのは得子だけ。
鳥羽天皇は、一番目の妃を皇后の地位から引きずり下ろし、得子を一番の皇后にしてしまいます。
更に、正式な王位継承がある、一番目の妃の長男が天皇の座に着いた時も、無理やりその地位から引きずり下ろし、得子の長男を天皇にさせました。
そして得子には、莫大な財産と巨大な領地を与え、鳥羽院制での地位を絶対的にしました。
その後、鳥羽天皇は53歳でなくなりますが、なくなるまで得子を愛し続け、得子のお墓まで用意します。
このように、全ての人生を国を得子に注いだ鳥羽天皇ですが、実は全て得子が鳥羽天皇に頼んでやってもらったことだとの話もあります。
さて、得子とは一体どんな人物なのでしょうか。
玉藻前のモデル「藤原得子」とは?
藤原得子は、女性ながらにして完全独裁者だったそうです。
鳥羽天皇の行いも褒めたものではありませんでしたが、裏で操作していた得子もまた、自分の思うがままに画策していたのだそう。
藤原得子は、藤原家という藤原鎌足を祖先に持ち、代々栄えてきた一族の娘。
父親に大切に大切に育てられた得子は、早死にした父の死後、鳥羽天皇に見初められ17歳で皇居に入ります。
皇居に入ると鳥羽天皇の寵愛を一身に受け、祖父おすすめの一番初めの奥様・正妃を超えるほどの勢いを持ちます。
藤原徳子は後の近衛天皇を出産し、正妃の子供の子供、鳥羽天皇からすると「孫」を次々と養子にします。
正妃の
- 長男の子供→得子の養子
- 四男の子供→得子の養子
という訳です。
将来王になるであろう子供の子供を養子にしておくことで、
- 弱みを握っておく
- 正妃の息子たちを自由にさせない
- 王位継承者を我が子にして権力を握る
などの要素があったように思います。
正妃の長男は23歳で鳥羽天皇の地位を譲り受けましたが、鳥羽天皇自ら、正妃の長男を天皇の地位から引きずり下ろし、得子の実の息子を天皇とさせます。
その後、得子は異例の皇后となり、政治を自分の身内で固めます。
鳥羽天皇の正妃は、得子を恨んだとして無理やり出家させられ、得子は「美福門院」という院号をもらいます。
御所では逆らう者がいないほどの権力を持った得子でしたが、天皇の地位にいた実の息子・近衛天皇が17歳でなくなります。
焦った得子は、様々な画策を施します。
自分に都合の悪いものは次々と排除し、実の息子が死んだのは敵対している者の呪いのせいだと鳥羽天皇に告げ口し、邪魔な人物はどんどん排除し、自分の地位を絶対的なものにし続けました。
そうして鳥羽天皇は、自分の跡継ぎとして、得子の養子になっている一番最初の妃の4男の子供を指名します。
その後鳥羽天皇が亡くなり、すでに指名されている4男の子供が天皇になるはずでしたが、ここでまた問題が起こります。
得子の子として、4男の子供が天皇に就くのですが、通常は1代飛ばして王になることはできません。
どういうことかというと
鳥羽天皇 → 4男 → 4男の子供
この順序を踏まなければならないそうです。
鳥羽天皇 → 4男の子供
では、法律上まかり通らない時代でした。
そのため、一旦鳥羽天皇の子、4男を天皇にすることが決まりました。
また4男の子供は幼かったため、「つなぎ役」としても置きたかったようです。
しかし長男が
「順番でいえば、次は自分が天皇になるはずだ」
と反乱を起こします。
1度は天皇の座についたものの、
- 鳥羽天皇に無理矢理降ろされる
- 義理の弟が天皇につく
- 実の弟が天皇につく
鳥羽天皇が死んでもなお、自分は天皇になれず悔しかったに違いありません。
しかしその反乱を、自分の子供(4男の子供)を天皇にしたい得子が許すはずもなく、数々の戦略を立て、得子がまたもや裏で糸を引きます。
4男自体を天皇にしたいわけではないけれど、4男の子=自分の子を天皇にしたい得子は、有力な将軍たちを集め、勝利します。
この反乱を【保元の乱】といい、この時
- 得子側に着いたのが平清盛
- 長男側についたのが源頼朝の父
あの有名な平氏と源氏です。
勝負は4男=平氏の勝利で、正妃の長男・崇徳上皇は島流しに遭いました。
4男が勝利したものの、次に天皇になるのは4男の長男。
つまり4男は、次に天皇になる息子の「ただの父親」であり、何の権限もなく、実際は得子が実権を握っていたというのが保元の乱の結末。
それに不満を感じた4男は、得子に不満を感じている者たちを集め、反乱を起こしました。
これが平治の乱。
そして、またもや平氏と源氏をそれぞれ味方につけ、戦います。
得子側についたのが、平清盛(保元の乱もそうでした)
4男である後白河天皇についたのが、源義朝(源頼朝の父)。
勝利したのはまたもや得子側。
余談ですが、この時、源頼朝は子供ながらに戦に参戦していました。
平治の乱で殺されそうになった頼朝を、平清盛の継母が止めたとのこと。
その後、平氏を源頼朝が滅ぼしたのは有名な話。
平治の乱の恨みがあったのかもしれません。
一度は平氏が勝ち、当面の間平清盛の時代が続きますが、最終的には源頼朝に滅ぼされてしまいます。
得子は、鳥羽天皇が亡くなってから、この二つの大きな戦を引き起こしました。
全て自分が操れる子供を天皇にしようとしたのが、大きな原因です。
また得子は、44歳で亡くなるまで、鳥羽院ほとんどの領地を自分名義とし、亡くなった後は娘が全て引き継ぎ、その後鎌倉時代ではその土地が王家の財源となり、大きな影響力を持ちました。
更に亡くなった後も、鳥羽天皇が作ってくれたお墓(三重塔)には入らず、女人禁制の高野山に骨を埋めるよう指示しました。
死ぬまで王位継承争いを裏で弾き続け、国のトップを全て決めていた得子。
死んでからも、入るお墓は自分で決めるその女性ぶりには頭が下がります。
得子をモデルにした玉藻前のお話の実話は、物語よりもえぐい内容でした。
玉藻前は藤原得子だけではない?
玉藻前物語は、基本的に王を弱らせて、国を破滅する九尾の狐が化けたものだと、物語には書かれています。
そのため、物語のモデルは得子であることは間違いないものの、得子より遙か昔に悪女と呼ばれた姫君たちも「玉藻前」とまとめて言われるようになりました。
- 殷の妲己(だっき)
- 周の褒姒(ほうじ)
この二人も実在した人物でありながら、残酷極まりない方法で民を苦しめ、国を破滅させた皇帝が一番愛した女性たちです。
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ただ歴史上では得子の方が後で生まれており、得子をモデルとした玉藻の前の話は、上の二人に関しては後から付けられたものだと言われています
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悪女と呼ばれる皇后達はみな、絶世の美女でした。
この辺も重なり、国を狂わせた美女をまとめて【玉藻前】と呼ぶようになりました。
※藤原得子さんは実際の人物です。
まとめ
玉藻前の話はまだ続きがあり、鳥羽天皇を弱らせたキツネは那須高原へ逃げて殺生石になったという逸話もあります。
その辺はまた九尾の狐伝説の話で。。。
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