那須高原にある「殺生石」の中には【教傳地獄】という、大きなお地蔵様「教伝地蔵」を中心に、周りに千体の小さな地蔵が立っている不思議な場所があります。
実はこの【教傳地獄】には、親不孝者を戒める伝説があるのだとか。
一体どんな伝説があって、そしてここでは何が行われたのか。
その謎を個人的分析も含め、教傳地獄と教伝地蔵を解説していきます。
教傳地獄とは?
栃木県那須高原にある、殺生石という硫黄を強く発する場所に祀られている教伝地蔵の一帯のこと。
なぜ「教傳地獄」と呼ばれているのか。
それにはこんな伝説がありました。
昔々鎌倉時代、後醍醐天皇という天皇がいました。
その時代に奥州白河という福島県のお寺に、教伝という子供がいました。
教伝は、今でいうかなりの悪ガキで、どうやっても手名付けられなかった母親が、お寺に預けましたのでした。
寺に預けたら少しはまともになるかと思いきや、教伝は大人になってもずっと悪さばかりしていたのだそう。
28歳になると、預けられた寺で住職になりました。
住職になると、離れて暮らしていた母親と一緒に住むようになりました。
28歳にもなれば少しは落ち着いているかと思いきや、久しぶりの母親との生活でも昔と何も変わらかったそうです。
ある時教伝は、友人と那須高原に湯治という、身体を癒しに行く旅に出かけに行くことになりました。
旅行の当日、せっかく母が用意してくれた朝食をお膳ごと蹴飛ばします。
自分が旅行の用意がまだなのに、母親がご飯をすすめるからという理由で。
結局、教伝は母がせっかく作ってくれた朝ごはんには手をつけず、旅行に出発。
那須高原についた教伝は、ある時「殺生石」を見に行きました。
すると、今まで晴れ渡っていた空が急に曇り、雷雨が鳴り響きました。
大地からは火炎熱湯が噴き出し、教伝以外は一斉に逃げました。
ふと友人が振り返ると、教伝は一歩も動かず、腰から下が炭のように真っ黒に焼けただれています。
そして教伝はこう叫びました。
「俺は寺を出るとき、母の用意したお膳を足蹴りにしてきた天罰を受け、火の海の地獄に落ちていく」
と。
腰から下が焼けただれて炭のようになり、そのまま息を引き取った教伝。
教伝が死んでからも、教伝が燃えて亡くなった場所は、いつまでも泥流がふつふつと沸いていたのだとか。
また他の言い伝えでは、元々教伝は那須に住んでおり、母親と薪を取りに行ったときに母親を蹴り倒し、その帰りに天罰にあうとされています。
教伝が死んだ場所・教傳地獄に行って「教伝甲斐なし」と言うと熱湯が沸くという。
数百年後、那須温泉周辺の有志が江戸時代になり、教伝の地蔵を建立し供養しました。
教伝地蔵の周りには千体地蔵も祀られ、その一帯を「教傳地獄」としました。
教伝地蔵は【親不孝のいましめ】として、その後参拝する人も多かったのだとか。
教傳と教伝、どっち?
実際に殺生石に行ったときに
- 教傳地獄
- 教伝地蔵
という2つの漢字を見ました。
- 教傳
- 教伝
どっち???
と不思議だったんですが、これそもそも「教傳(きょうでん)」という名前かどうか自体も定かではないとのこと。
教伝の話が鎌倉時代であるにも関わらず、地蔵が建立されたのは江戸時代なので、年数が空きすぎです。
ちなみに鎌倉時代の後は
- 室町時代(約230年)
- 安土桃山時代(約40年)
ときてやっと江戸時代ですが、地蔵が建立されたのは江戸時代が始まってから更に約100年後。
教伝地蔵が建立されるまでに、少なくとも約370年。
教伝の伝説が、数百年経っても伝説として消えなかったということになります。
そのため、
- 教=教える
- 傳=つたえる
という名前で、殺伐とした殺生石の雰囲気から「地獄」とし、仏の教えや戒めを守るように地元の人たちが作ったのではないかという話もあります。
そして地蔵は
- 教=教える
- 伝=伝える
という名前にしました。
どちらも『教えを伝える』という点では、意味が同じなので両方使ったのかな?
教伝地蔵の由来
江戸時代に、那須温泉地元の人たちによって作成された地蔵が「教伝地蔵」。
昔からの言い伝えを後世にも伝えるためか、ただ単に戒めを守るためか。
しかし、昭和50年頃にはかなり古びてしまったそう。
そこで、那須地元の石工職人が新たに大きな教伝地蔵を作成。
それが、今現在殺生石にある大きな大きな教伝地蔵です。
奥の地蔵様が、江戸時代に作られた地蔵です。
初代教伝地蔵は昭和時代には首が取れていたそうで、修正しています。
新しく教伝地蔵を作った時に、小さな地蔵も2体添えました。
その小さな地蔵が地元の人たちに好評で
「小さな地蔵を千体作ろう!」
ということになりました。
教傳地獄にいる千体地蔵とは?
この千体の地蔵にはどんな意味があるのだろうと、実際に殺生石に行ったときは思っていました。
どうやら地元の人達の声掛けから始まったのが、千体地蔵だそうです。
30年余りの月日をかけて、たった一人の石工職人が作り上げました。
千体地蔵は寄贈品として、自分のお地蔵さまに帽子をかけてあげる人もいるのだとか。
一帯一帯のお地蔵さんの顔が違います。
合わせている手がとても大きく、訪れる観光客の平安を祈ってくれているのかもしれません。
教伝地獄を個人的見解で紐解いてみると…
泥流は泥だけでなく、火山から出るものも含まれます。
元々殺生石がある場所の山は、那須岳と言って火山岳です。
殺生石の真上にある茶臼岳は、頂上が石ころだらけ。
※茶臼岳頂上
通常、山にある緑の自然がないんです。
なので、教伝がちょうど観光に行ったときに、たまたま火山が起こり、溶岩が流れ出たのかもしれません。
また殺生石周辺は、温泉地です。
そのため、急に火炎熱湯が噴き出したのかもしれません。
湧き出る温泉はかなり熱いです。
その熱湯にやられてしまったのかもしれません。
昔は火山も多く、そのたびに人間は「神が怒っている」と考えていました。
火山で亡くなる人も多く、予測できない火山が、たまたま殺生石で起こったということで、呪いと共に伝説となったと思われます。
ただ
- 温泉が湧き出る場所
- 人が集まる場所
というのはパワースポットとしても知られています。
恐らくですが、殺生石は良くも悪くもかなりのパワーを潜めた場所なのではないでしょうか。
パワースポットとも呼べるその場所は、パワーが強すぎるために
- プラスの効果
- マイナスの効果
がはっきりと分かれるのかもしれません。
そうはいっても、人間の運命は決まっています。
地獄に落ちるか、安らかに死ねるかは、生前どこまで人を大切にし、感謝の気持ちを忘れないかで決まると私は思っています。
死に方が残酷な人は、やはりそれなりの人生を歩んできたかもしれません。
教伝が親を大切にしない人物だったために、天罰が下った。
親を大切に。という教えなのかもしれません。
教傳地蔵がある殺生石体験談や謎の九尾の狐伝説はこちら↓
まとめ
殺生石の教傳地獄。
初めて見た時は、なんというかちょっと不気味といいますか。。。
長居してはいけない場所、そんなイメージを受けました。
まぁそもそも殺生石そのものが様々なパワーが強すぎて、ある意味良くも悪くもパワースポットであると言ってもいいのかも。
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